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敗者の美学

 このブログも多い時には、一日に50人近い方々に見ていただいているようです(ココログ アクセス解析による)。嬉しい思いとがんばって書かなきゃという思いもありますが、基本的には私の仕事の余裕がある時に更新するスタンスです。

 無理して書いても楽しい文章にはなりませんし、気の向くまま書いて行こうと思っております。したがって、更新されない日も多々ありますが、ご容赦ください。

 このブログは、基本的には左鐙地区のあれこれを紹介する文章ですが、その文章の中に、私の思いを少しブレンドしております。

 今日は「敗者の美学」という題で書きます。

 基本的には、勝者は敗者より優れていると考えるのが当たり前でしょう。しかし、あえて負けることが覚悟の上で、自分の美学を貫くことは、勝者以上に美しいと私は思っています。

 全国的な知名度はどうかは分かりませんが、私が歴史上で最も好きな武将は、関ヶ原の合戦で敗れて自害した大谷吉継です。

 この大谷吉継は、豊臣秀吉から「一度、百万の軍勢を預けて自由に指揮させてみたい」と言われたほどの武将であり、官僚としての能力も抜群であり、太閤検地を仕切ったり、兵糧奉行を務めるなど、とても文武を備えた優れた武将でした。

 しかし、ハンセン病を患いました。ある時、秀吉主催のお茶会の時に、吉継が飲んだ茶碗を回して飲む時に、吉継が飲んだ後は、皆お茶を飲んだふりをして口につけなかったそうです。その時の屈辱感は計り知れないほどでした。しかし、石田三成ただ一人、平然として口をつけて茶を飲んだそうです。

 この時、吉継はいつか三成のために命を捧げようと思ったようです。

 聡明な吉継は、徳川家康が次の天下を取ることは分かっており、家康に味方するつもりで城を出ました。そして、途中で石田三成の居城に立ち寄った時に、三成から家康討伐の話を聞きました。吉継は、家康に刃向かうことの愚を三日三晩説きましたが、三成が聞き入れないため、終に命をささげることを決意しました。

 そして、吉継としては勝ち目のないと思われる関ヶ原の合戦で、三成方の西軍に布陣しました。西軍に布陣している吉継を見た徳川家康は驚いたようです。

 優れた軍師であった吉継は、その時には体が不自由であったと言われるが、輿に乗って自軍を指揮し、東軍の藤堂・京極隊と戦い、あらかじめ小早川秀秋の裏切りを予想して600名の兵を割いて、小早川に備えたそうです。

 案の定、裏切った小早川秀秋隊の1万5000名の攻撃を、600名の軍勢で3度にわたって押し返したほどの実力を見せました。

 しかし、小早川の裏切りを見て、寝返った脇坂・赤座・小川・朽木隊から側面攻撃を受けて全滅しました。

 大谷吉継は、勝つあてのない戦で、石田三成との友情を取り、潔く散って行った姿は、自分の保身のみを考える武将が多かった中で、輝くようでした。

 堀江貴文さんがかつて「稼ぐが勝ち」と言われました。しかし、本当にそうでしょうか。稼いで買ったたくさんの物を持っていたり、高級な食事をすることが本当に幸せでしょうか。これを買って一生涯幸せだというものがあるでしょうか。

 あるセレブの婦人は、高級車に乗ってエステに来た時、腕のリストカットの跡を見た店員さんに「心が休まるのはここだけです」と言われたそうです。高級な車も宝石も食事も本当に心満たすものではなかったようです。

 左鐙には、安定した就職の誘いを断り、家業の農業を継いだ若者がいます。

 彼は自分の仕事に誇りを持って輝いて生きています。

 損か得かよりも自分が輝くことができるかどうかが大切なことだと思います。 

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グラントワとグランドゴルフツアー

 去る3月9日、補助事業として、左鐙公民館の高齢者学級で、島根県芸術文化センター「グラントワ」に21名が見学に行きました。大ホール、小ホールを舞台から説明を受けながら見学し、美術館見学などを行いました。

 この西日本でも有数の音楽ホールであるグラントワができたおかげで、この地域の人々は、日本でもトップレベルのアーチストの音楽等に触れることができるようになりました。

 中島美嘉やゴスペラーズのコンサートはあったいう間に満席になり、映画「おくりびと」に至っては、販売に人々の行列ができて2回上映予定を2回増やして、中ホールの400席の4上映で合計1,600枚のチケットがあっという間に完売したそうです。

 ホール見学は、普段客席から見る風景の反対の舞台から客席を見渡せ、また違った風景で楽しい見学でした。

 その後、益田駅ビルEAGA2階の日本料理「亀地」でバイキングをいただき、島根県立万葉公園で、グランドゴルフに汗して帰路につきました。

 皆さんは、とても楽しかったようでした。

 デジカメを持参していたのですが、各種支払いや撮影禁止の場所もあり、皆さんと話をしたり、グランドゴルフをやったりして、一枚も写真が撮れませんでした(途中でカメラの存在を忘れていました)。

 今は、子どもの運動会や発表会でも、カメラのファインダーをのぞくことが多くなっています。私もよくファインダーで子どもを追うことに夢中で、生の子どもの姿を見ることがないことも多々あります。

 先日お聞きした話の中で「撮影や録音はテープに取ってあると思って、心に残らないことが多いのです」ということも聞いたことです。

 テープやDVDなどの記録媒体に残すことも大切なのでしょうが、子どもの成長をしっかりと心に刻むことの大切さを思うことです。  

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責任を持つということ

 戦艦大和五代目艦長 有賀幸作大佐は、戦艦大和沈没時の艦長でした。有賀大佐は、大和艦長就任を喜び、長男に「大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものはなし」と言われたとそうです。

 大和が敵機の攻撃を受けて沈没する際には、羅針儀をぐっと握ったまま(または羅針儀に体をくくりつけてのお話もあります)艦と一緒に沈んでいったと伝えられています。

 当地からもたくさんの人が大和と共に帰らぬ人となっておられます。

 この有賀大佐から学ぶことは、トップに立つ人の責任の取り方を教えているように思います。

 現代、第3セクターなどが相次いで膨大な債務を抱え破綻するケースが多いのは、責任の所在があいまいであるからであるようにも思います。

 民間企業ならば、社長が借金をして経営し、万が一破たんすれば、その責任は社長が全て取るのが一般的な常識です(一部にそうでない場合もあるようですが)。

 第3セクターが相次いで破綻する原因の一つは、その原資が自らが汗水たらして自己責任で工面して作ったものでなく、住民の税金であり、自分の懐は全く痛まないからかもしれません。

 有賀艦長のように、国民からお預かりした戦艦が沈む時には、自分も一緒に沈むというほどの覚悟を決めて、物事を行うならば、下で働く人の意識も、周りの人々の意識も全く違ったものになると思います。

 当地のような中山間地で過疎地である地域で経営を行うのは並大抵のことではありません。しかし、だからこそ経営者は、知恵を絞り、汗をかき、そのデメリットを克服しているのだと思います。

 左鐙地区内の横道に住む冨田 智さんは、耕地の狭い山村の農業経営を支えるために、高所にある横道福谷の地理的なデメリットをメリットに変え、東北で見てきた「こごみ」を栽培して、今ではわさびと共に冬の代表的な農作物として、九州などに出荷して農業経営を支えておられます。

 デメリットを嘆くよりも、工夫してデメリットをメリットに変えていく、こんな発想が一番大切なのでしょう。 

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